復興シンボル「福島・会津赤べこ」 東京オリパラに希望つなぐ不屈の精神

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復興シンボル「福島・会津赤べこ」 東京オリパラに希望つなぐ不屈の精神

(公財)フォーリン・プレスセンター What's Up Japan編集部

赤い張り子に、白い線が次々と描き込まれていく。店舗を兼ねた家族経営の工房の一角で、絵付けを手がける荒井美枝子さんの筆さばきは巧みだ。

仕上がった絵柄は、十字を二つ重ね合わせた形に見えなくもないが、実際は古くから伝わる井戸の上部の木枠をイメージした「井桁(いげた)」模様が施されたものだ。

「模様の意味や、張り子の由来さえも知らない人が多いのです」と話す荒井さんは、ボタン大の点模様も描き入れていく。民芸品を制作する荒井工芸所(福島県会津若松市)では、こうした「赤べこ」が10体ほど、絵付けの順番を待って並んでいた。

首が揺れる赤べこは「赤い牛」を意味し、福島県会津地方のシンボルだ。病気が流行すると赤くて丸い魔除けを用いた古代の習わしに、その由来がある。

荒井さんによると、赤べこは少なくとも400年前には子供たちのお守りとして作られるようになった。会津地方では牛はあちこちで目にするものだったことから、赤べこは子供たちのお守りとして親しまれ、絶えず上下に動く首が人々を楽しませていたのは間違いないという。

井桁模様は水や洗い清めを象徴していて、点模様は天然痘を患った後に身体に残る跡を表している。天然痘は、日本において17世紀だけで4回大流行した。

「べこ」」(牛の俗語)の両側面を飾る「巴(ともえ)」模様も、水に加え、悪霊や危険、病気から身を守る魔除けとの関係が深い。赤色から魔除けが連想されるのも同様だ。

地元の言い伝えでは、病気にかからずに済んだ子供たちの多くが赤べこを持っていたとされる。

「天然痘は根絶されましたが、今は新型コロナウイルスが大流行しています」「治療法が見つかるまでは、赤べこの出番だと思います」と、赤べこなどの伝統的な張り子の玩具やお面を手がける荒井さんはこう語る。

赤べこの背中の井桁(いげた)模様は水や洗い清めを象徴し、点模様は天然痘を患った後に身体に残る跡を表す。側面の「巴(ともえ)」模様も水に加え、悪霊や危険、病気から身を守る魔除けと関係が深い ©ROB GILHOOLY PHOTO

福島県立美術館(会津若松市)の大里正樹紀氏によると、もともと赤べこは会津武士が作った張り子の工芸品の一つだったという。

こうした副業は、下級武士が営んだ。奨励したのは16世紀の大名で、会津の鶴ヶ城の城主だった蒲生氏郷(がもううじさと)だ。京都から職人を招き、武士たちに伝統工芸を学ばせた。自活を促すためだった。

「時代の経過で変遷はありますが、赤べこは江戸時代(16031868年)に作られていた張り子の民俗玩具の一つです」と大里氏は話す。「武士が現金収入のために作ったと言われています」

会津地方では、子供が生まれると赤べこを贈るのが昔から続く習わしだった。ただ、かつては地元で広く作られた赤べこなどの張り子の民芸品も、今では手がける業者が3か所しか残っていない。

その一つが荒井工芸所で、荒井美枝子さんが、息子の政弘さん、夫の啓安さんと一緒に切り盛りしている。一家の家系をたどると、張り子をはじめとする民芸品を作っていた武士が先祖だという。

赤べこが最初に作られた時期を正確に示す記録はない。ただ、江戸時代に入る前から、会津の文化的な営みの一端をなしていたという説もある。地元の言い伝えからヒントを得て作り始めたというものだ。

そうした言い伝えの中に、会津地方西部・柳津町の圓蔵寺にまつわるものがある。千年以上も前のこと、寺は火災後に見舞われた。再建にあたり、崖の上にある寺まで只見川から資材を運び上げるのは重労働だった。すると、どこからともなく牛と馬の群れが助けに現れた。寺の再建が終わると、赤い牛が1匹だけ残ったという。

それ以来、この牛は最悪の災難さえも耐えうる幸運のシンボルになったと大里さんは話す。

「この言い伝えに基づき、特に柳津の住民たちは、自分たちの地元が赤べこの発祥の地であると主張しています」。そう話す大里さんは、圓蔵寺のご本尊が牛の守護神であることも引き合いに出した。

今では、赤べこは会津で神様のように崇められている。特大の赤べこが鉄道駅の外や公園に登場し、Tシャツからスマートフォンのカバーまで、さまざまなアイテムのデザインに使われている。地元を走る列車の中には「あかべこ」と名づけられた特急もある。また、柳津では毎年「赤べこまつり」が開催されている。

「赤ベコ公園」(会津若松市)にある赤べこのデザインの水飲み場とすべり台 ©ROB GILHOOLY PHOTO
柳津町のお店で見つけた赤べこデザインのキャンディボックス ©ROB GILHOOLY PHOTO

さらに、20113月の東日本大震災と津波による東京電力福島第一原発事故の後、赤べこは福島で復興のシンボルとなった。原発事故では複数の原子炉でメルトダウンが起き、16万人以上の住民が避難し、その多くが仮設の避難所での生活を余儀なくされた。

会津大学はこうした住民に支援を提供してきた機関の1つで、無料で出前講座を届けてきた。避難した人たちに、地域の復興に取り組む意欲を持ってもらうことを目指しての事業だ。大学はそれを「会津大学赤べこプログラム」と名づけた。会津の言い伝えに出てくる「赤い牛」の奮闘ぶりが、福島の人たちの不屈の精神を示すとされていることを踏まえ、それに敬意を示してのネーミングだ。

一方、会津地方の西部にあるもう一つの張り子業者「野沢民芸」は「赤べこプロジェクト」を開催した。被災した東北地方をめぐり、各地の人たちに自分で赤べこを作ってもらう取り組みだ。

プロジェクトの狙いは、子供をはじめとする被災者に、ゼロから何かを作り上げていくことについて考えてもらうことだった。広範囲で犠牲を被った地域の再建を担う人たちにとって役に立つと考えたのだ。

荒井さん一家は、東京五輪・パラリンピックの期間中、会津の「幸運の牛」が魔除けパワーを発揮するよう願っている。赤べこは、日本の伝統工芸品を幅広くPRする東京五輪・パラリンピックの公式ライセンス商品の一つに選ばれている。

限定版は、首が揺れ独特の模様が施された従来の特徴に加え、大会に合わせた色付けもされている。五輪は青で、パラリンピックはピンクだ。

荒井工芸所(福島県会津若松市)の荒井美枝子さん ©ROB GILHOOLY PHOTO

こうした赤べこはすべて、昔ながらの手作業で作られ、絵付けされている。もっとも、公式の大会ロゴだけは別で、パッド印刷と呼ばれる現代的な手法で印刷されている。

新型コロナウイルスの世界的な大流行で東京五輪・パラリンピックは1年延期となったが、荒井さんは一家で前向きにとらえているという。太陰暦によれば、2021年は丑(うし)年だからだ。

さらに、このような困難な状況にあっても、荒井さん一家は、赤べこが何百年も昔と変わらぬ役割を果たすことを願って、作り続けるつもりだという。

「手作りは手間がかかりますが、赤べこに込められた意味を伝えるのに、この手間は欠かせません。赤べこは子供たちを守り、幸運をもたらす役割があり、伝えるべきメッセージが込められているのです」。そう話す荒井さんは、五輪とパラリンピックに向け、そうした思いがいっそう切実なものになっているという。

「先人が天然痘を克服したように、人類はコロナウイルスを克服し、世界の子供たちが健康で幸せになってほしい。私たちが伝統をしっかり担い続けようと固く決心しているのは、そのためです」

荒井工芸所の手がける赤べこは東京五輪・パラリンピックの公式ライセンス商品の一つに選ばれている。五輪は青で、パラリンピックはピンクだ ©ROB GILHOOLY PHOTO
魔除けの意味を持つ赤で色付けする息子の荒井政弘さん ©ROB GILHOOLY PHOTO

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What’s Up Japanは2020年1月末に、福島県で地元の伝統工芸品である「赤べこ」を制作する工房を取材し、病気などの災いに対する魔除けとしての「赤べこ」の歴史や、東京オリンピック・パラリンピックの公式ライセンス商品に選ばれたことを紹介する記事の公開準備を進めていました。3月24日にオリンピック・パラリンピックの延期が決定したことから、翌日この工房に改めてコメントを求め、本記事に反映しました。

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