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福島:伝統の「こけし」、土湯温泉の復興の力に。五輪に向けた計画も
土湯という地名のグローバルな認知度は高くはないが、ここ数年、ある文化的な分野でこの温泉地の存在が海外で知られるようになっている。
その分野とは、町の伝統工芸品である「こけし」だ。こけしは、ロクロ挽きで作られる木製の人形で、単純なフォルムと色鮮やかな文様が特徴だ。何世紀もの間、東北地方の職人たちの手で生み出されてきた。
福島県の土湯町は、こけしの「日本三大産地」のひとつだ。土湯町では、こけしのデザインが店舗の目印、看板、その他様々なものに施されており、至るところで目に入ってくる。
特大サイズのこけしが大通りだけではなく、荒川大橋の装飾としても鎮座している。さらには、メインのバス乗り場にはこけしの顔出しパネルが設置されており、カフェではこけしプリンやこけしサイダーがメニューに並ぶ。温泉施設「御とめ湯り」では、こけし柄のポンチョを身にまとって木製の風呂に座った状態で楽しめるスチームバス「こけし蒸し」まで提供している。


土湯町に住む6代目のこけし職人である阿部国敏さんによると、こけしの正確な起源は定かではないが、江戸時代(1603–1868)に女の子用の玩具として作られるようになったと考えられているという。
「こけしのルーツについては諸説あるのですが、東北地方特有の文化だという認識は広く共有されています。温泉への旅行が盛んになると、お土産として人気になっていったのです」長年ロクロを回し、色とりどりのこけしを生み出してきた阿部さん(47歳)はこう語る。
亡くなった子どもの身代わりとしてその母親にあげるものだったという説もあるが、阿部さんはその説を否定する。日本語の音で「こ」は「子ども」、「けし」は「消える」や「殺す」という意味があるため、残念な読み違えによって誤解が生まれたのだという。
阿部さんによると「こけし」という名前は、1940年頃にこの種の人形の呼び方が統一されるまでは普及していなかったという。
「それまで土湯では、こけしのことを“でく(木偶)”や“でこ”と呼んでいました。木の人形という意味です。土地ごとに様々な呼び方がされていたのです」
「こけしよりも前の時代から、土製の小さな“芥子(けし)人形”というものがありました。そして漢字の木は“こ”と読める。その二つがくっついて新たに“こけし”という名前が生まれたのです」(阿部さん)
一般により認知されている説として、こけしの起源は1200年前から続く京都の御所人形にあるというものがある。元来、御所人形は子どもの誕生などに際しての祝いの贈り物とされていた。
実際、こけしはこれと同じような役割を果たしている。現在でも土湯の職人は、子どもが生まれた夫婦から、赤ちゃんと同じサイズのこけしを作って欲しいという注文を受けることがあるのだ。
一方で、こけしと御所人形の見た目の共通点は少ない。
典型的な御所人形は曲線的で、描かれる人物は肌が真っ白に塗られている。一方で、こけしは、球体が、細い筒の胴体の上にただくっついているようなものだ。素材には土地で採れる木(山桜、ハナミズミ、イタヤカエデでいう日本のカエデなどが主)が用いられいることから温かみが生まれ、頭部に描かれるいきいきとした表情がアクセントになっている。
この装飾が、こけしの最も興味深いポイントのひとつだ。阿部さんによると、微妙なデザインの違いは産地の違いを表すだけではなく、制作した職人のスタイルを示す刻印にもなるのだという。
福島県の土湯温泉と、隣接する宮城県の鳴子温泉、遠刈田温泉が「日本三大こけし産地」で、いずれも温泉地だ。土湯のこけしは、デザイン的特徴によって、他の2つの産地のものと一見して見分けることができる。(阿部さん)

その特徴のひとつが胴体に色とりどりの線で描かれる縞模様だ。胴体は真っすぐや底に向けて緩やかな曲線になっているものが多い。
対して、鳴子のこけしは、菊模様や重ね菊という菊を装飾的に表現した模様で知られており、その胴体は中央部に向けてくびれているものが多い。
顔の表情も変化に富んでいる。阿部さんによると、例えば土湯の職人たちは上瞼と下瞼の両方を描くのに対し、鳴子の職人は上瞼しか描かないのだという。

一方で、素人には分かりにくいが、土湯に残る7つの工房についてもそれぞれに固有の特徴を見ることができる。カセと呼ばれるこめかみの髪と前髪の間に描かれる模様の微妙な違いがそのひとつだ。
阿部さんによると、このような多様性が、近年新たなファンを呼び込んでいるという。そして、かつては土産物や女の子用の玩具だったこけしが、いまや人気のインテリアオーナメントであり、コレクターズアイテムになっているというのだ。かくいう阿部さんの姿を探すなら、土湯の中心部にある家族経営の土産物店「まつや物産店」の奥のロクロの前だ。

実際、こけしはいま空前の大ブームで、特に若い女性の間で人気だ。東北地方では年じゅうこけし関連のイベントが開催されている。昨年9月に宮城県で開催されたイベントでは人気のこけし職人の作品がたった2時間で売り切れとなった。このイベントのお客さんの約7割が若い女性で、イベント開幕の1週間前から並んで待っていた人もいたという。
このこけしブームは、日本国内だけのものではない。第二次世界大戦後、日本に駐留した連合国軍関係者の妻たちの中にもこけしファンが生まれた。そして現在も、海外の愛好家が東北を巡り、こけしそのものをはじめキーホルダーやTシャツなど数えきれないほど開発されているこけしグッズを収集している。
今日のブームが起こったのは、2011年の東日本大震災の後だ。多くのこけし生産者が地震と津波、そして原発事故の影響を受けた。なかには店を畳んでしまう人もいた。
地域が復興を遂げるにつれ、こけし職人たちの事業も回復していった。そして彼らの仕事ぶりがニュースや書籍で取り上げられた。これをきっかけに、他の地域の現代的にアレンジされたこけしとは対照的な、土湯の伝統こけしへの注目が高まったのだ。
阿部さんは、土湯の他の多くの人々と同様、このこけしが、土湯の未来を好転させることを願っている。土湯はこの一帯で最も出生率が低く、高齢者が住民に占める割合が最も高い地域なのだ。
近年、土湯町の人口は大幅に減少していたが、それに追い打ちをかけたのが2011年の震災に起因する負の連鎖だった。ついに昨年、小学校が閉校するまでに至った。
土湯町は、この傾向を変えようと施策を打ち出しており、こけしブームの中心地であることを利用しようとする計画もある。「湯夢舞台(ゆめぶたい)」という新たな施設にはこけしミュージアムがあり、訪れた人がこけしの絵付け体験を楽しむこともできる。
このほか、同様のプロジェクトが東京オリンピックに向けて進められている。福島ではソフトボールと野球の試合が開催される予定だ。
「こけしは子ども時代を象徴するものです。町の様々な取り組みに加え、こけし人気が若い世帯がこの町に移住するきっかけになればと願っています」と阿部さんは語る。
