川口市の鋳物産業が歩む、2020年東京オリンピックに続く道

地場産業開催地

川口市の鋳物産業が歩む、2020年東京オリンピックに続く道

(公財)フォーリン・プレスセンター What's Up Japan編集部

1964年東京オリンピックの聖火台がつくられた「鋳物の街」、川口

今年10月、川口駅前に地域の住民が集まり、長い間不在だった友人の帰りを出迎えた。高さ2.1メートル、重さ4トンのオリンピック聖火台の61年振りの生まれ故郷への里帰りだ。式典が開催され、この地で再び聖火台に火がともされた。

この聖火台は、1964年の東京五輪で使われたものだ。当時、その燃え盛る火は、戦後日本の国際社会への復帰を強くアピールしたオリンピックという一大イベントを彩ったのだ。

そして、この聖火台が誕生したのが、この川口市の鋳物工場だった。川口の鋳物産業の起源は江戸時代(1603年~1868年)まで遡るといわれ、荒川で良質な砂粘土が多く採れることから発展を遂げた。

オリンピアンの室伏広治さんが参加して行われた川口駅前での式典の様子(2019年10月6日)。写真提供:©川口鋳物工業協同組合

「私たちの歴史の一部が帰ってきたようです。」地元住民の細井伸さんは聖火台を見ながらこう語る。聖火台は、2015年に東京の国立競技場が解体されるまでその内部に設置されていたが、その後は他の都市を回って期間限定で展示されてきた。「かつて川口駅周辺の多くの建物は鋳物工場だったと聞いています。昔は今よりもずっと多くの工場が市内にあったんです。」(細井さん)

川口鋳物工業協同組合の熊倉孝至さんによると、東京の北東に位置する埼玉県川口市には、1940年代後半には約700軒の鋳物工場があり、「鋳物の街」として知られていた。

「(最盛期には)川口の鋳物産業は鍋釜類から街灯、校門、自動車部品、印刷機、クレーン用の歯車まで、あらゆる種類の鋳造品を製造していました」と話す熊倉さん。所属する川口鋳物工業協同組合は1905年の設立だ。「最盛期には、住民の約70%が鋳物業に従事していたと言われています。私の父や祖父もそのうちの一人でした。」

川口市の鋳物産業を象徴する像が駅前に設置されている。©ROB GILHOOLY PHOTO

川口の鋳物産業は2000年以降特に衰退傾向にあり、この年、市内の工場数は1912年以降で初めて200軒を下回った。熊倉さんによると、企業の生産拠点が中国など近隣アジア諸国に移り、さらに自動車メーカーなどの顧客からの発注が国内の新たな産地に奪われてしまったのだ。

かつては市内でひと月に3万トン以上の鋳物が生産されていたが、現在はその4分の1にまで減少しているという。

現在、川口市では50軒の工場が操業しており、うち60%が鋳鉄製品をつくっている。その工程のほとんどは手作業で、製品の多くは「人の目に触れることのない」機械部品だ。

マンホールの蓋が、近年じわじわと注目を集める

一方で、市内企業のひとつである長島鋳物株式会社は、ここ数年注目の製品を手掛けることで、その名を知られている。同社では1945年から手掛けるマンホールの蓋が、近年、都市の単なる機能的な脇役から正真正銘のパブリックアートに進化しているのだ。

長島鋳物株式会社の工場 ©ROB GILHOOLY PHOTO

同社は年間4万個のマンホールの蓋を鋳造しているが、その多くは道路に彩りを加えたいと考える全国の自治体向けのものだ。デジタルデータを使ったデザインの彫刻や、溶鉄の鋳型への注ぎ込みなど、今日ではその製造工程の多くが自動化されている。

長島鋳物におけるマンホールの蓋の製造工程。©ROB GILHOOLY PHOTO

しかし、現在でも手作業で行われる工程がある。それがカラフルな合成樹脂塗料を塗りつけるプロセスだ。この作業がデザインを際立たせ、景勝地など地域を象徴するものを鮮やかに描き出すのだ。

色とりどりの合成樹脂塗料を塗る工程は今でも手作業で行われる。©ROB GILHOOLY PHOTO

マンホールの蓋のデザイン化は1980年代から始まり、地下水道や下水の「暗い」イメージを払拭してきた。我々の社会においてマンホールが果たす役割の重要性を考えると、そんな暗いイメージだったこと自体おかしな話ですよね、と語るのは、長島鋳物株式会社、常務取締役の長島優子さんだ。

「ほとんどのマンホールの蓋のデザインは、花や鳥、自治体の紋章、またはその土地の特色を一目で伝えるようなものです。」コンピューターグラフィックスが、地域とゆかりのある漫画キャラクターなどの複雑なデザインを実現するのに役立っているという。「地域のマンホール蓋を見るだけで、そこで一番有名なものが何かが分かるんですよ。」(長島さん)

秋田犬がデザインされた秋田県大館市のマンホールの蓋。©ROB GILHOOLY PHOTO

工場地帯から東京のベッドタウンに変化した後も、伝え続けられる街の歴史

長島鋳物株式会社の本社は川口市にあるが、工場は近隣の久喜市にある。川口鋳物工業協同組合の熊倉さんによると、これは過去50年間に鋳物産業が川口市の中心部から外に出ていってしまった現状をあらわしているのだという。マンション群が鋳物工場に取って代わったのだ。川口市は、通勤電車で楽に東京に通える距離にあるため、東京の中心部で働こうと全国から集まる人々にとって便利なベッドタウンになっているのだ。

問題は、鋳物産業に従事する住民が減少し、川口市の産業の歴史が忘れられることだ。これが鋳物産業の衰退に拍車をかけている。

しかし一方で、新たにデザイン性の高い日用品の開発に乗り出す意欲的な会社も出てきている。お洒落な卓上グリルや軽量のキッチン用品が生まれており、それらは川口商工会議所の「かわぐちいいもの」ブランドに認定されている。なお、この「いいもの」は「良い物」と「鋳物」の両方を差す語呂合わせだ。

鋳造産業を活気づける試みとして、川口市は2015年から川口市市産品フェアを開催している。さらに、市民の間での認知を高めるため、地元の学校で鋳物産業についての講演を行うなどの策もとられている。

川口市の奥ノ木信夫市長は、政府に対し、2020年の東京オリンピックで古い聖火台を再び利用して欲しい、もしくは新しい聖火台の制作を川口市の鋳物業者に発注して欲しいという大胆な要望を出している。

今のところそれらの願いは聞き入れられていない。とはいえ、来年3月、オリンピック開会に向けて、古い聖火台は川口駅から完成したばかりの新国際競技場に移され、新たな居場所を得る予定だ。

2020年のオリパラで新国立競技場を訪れる観客は、川口市でつくられた古い聖火台を見ることができる。©ROB GILHOOLY PHOTO

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