被災地・宮城発「津波の記憶を世界へ語り継ぐ」提供:一般社団法人ふらむ名取 格井直光さん

課題への取り組み開催地

被災地・宮城発「津波の記憶を世界へ語り継ぐ」東京五輪で語り部ボランティア、復興訴え、支援に感謝も

(公財)フォーリン・プレスセンター What's Up Japan編集部

話の筋はいたって単純だ。しかし、格井直光さん(61歳)がそれを語り継ぐのには、胸が張り裂けるほどの思いが伴う。

20113111526分。東日本大震災に伴う津波が襲ってきた。宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区は波に飲まれ、格井さん家族の住宅を含む沿岸部の家々をさらっていった。人口7,100人だった閖上地区の10%以上の人々が犠牲になり、そこには格井さんの両親も含まれる。

語り部としてあの時の出来事を伝える機会は数多くある。しかし、10年ほどがたった今でも、それは辛く、苦しい役回りだ。

「人の記憶にきちんととどめてもらいたいんです」。そう話す格井さんは防災専門家で、かつてはスポーツ用品販売会社に勤務していた。「海岸のあちこちが変り果て、元の姿が思い出せないほどです。この間、復興への取り組みが進み、新しいコミュニティもできました。しかし、過去に起きたことを思い出し、そこから学ぶ必要があります」

震災後の光景(提供:格井直光さん)

2011年の震災では、東北地方全体で18,000人の命が奪われ、さらに何十万もの人たちが家を追われた。そんな廃墟から、何人もの人たちが語り部として立ち上がった。

宮城県で際立って被害の大きかったのが、南三陸町と気仙沼市だ。格井さんはそこで活動する語り部たちのことを聞いて、自分も地元で同じ役割を果たそうと心に決めた。

「それまでも訪ねてくる身内の者や友人を案内してはいましたが、自分のことを語り部だと思ってはいませんでした」と格井さんは言う。

語り部をめざしたもう一つの契機は、地元の再建工事の最中に、閖上地区を通る貞山運河の底から石の標柱が見つかったことだった。

「それが何なのか、だれも分からなかったのですが、その標柱は1933年の昭和三陸津波のあと、津波が到達した場所を示すために建てられたものだったのです」と格井さんは話す。「80年ほど前の津波の記憶を伝えるためのものだったのに、地元ではもう忘れ去られてしまっていたのですね。前回起きた津波の経験が引き継がれなかったわけです。これは残念で、困ったことだと思ったのです」

格井さんはすぐに、被災体験や震災前の閖上地区の様子を伝える語り部のグループを立ち上げた。閖上地区は小さな漁業のまちで、県庁所在地の仙台市に隣接する名取市の東端に位置する。

グループはさらに、コミュニティ新聞の発行を始め、地元の人たちの取材を無数に重ねた。こうして記事や写真を掲載していくことで、語り部としての活動も広がっていった。語り部というものは日本で長い歴史があり、伝統芸能などとして他の様式も残っている。

「語り部」の活動(提供:格井直光さん)

「震災による変化は目を見張るものがあります。視覚資料のおかげもあり、震災前の様子だけでなく、復興の取り組みがどう進んだかも分かります」。そう話す格井さんの語り部グループは、学生など毎年200組以上の団体を相手に活動していた。ただ、そうした数字は2014年までで、その後は半減している。時とともに忘却するのは人の世の常だと、格井さんは言う。

「被災体験と失われたコミュニティの記憶を伝えるだけでなく、新たに形づくられるコミュニティについても伝えていく。それが私たち語り部の役割です」

地元は後戻りできないほど変り果ててしまった。各地の被災地でそろって起きたことだ。

震災後の調査で、閖上地区でも被害の大きかった沿岸部住民のうち3分の2は、将来また津波が繰り返される恐れから、内陸に移住することを希望した。一方で、地元当局は、震災前と同様5,500人の住民が沿岸部で生活すると想定した復興計画を進めた。しかし、納得しない住民がその計画を拒否し、最終的にその想定人数は2,100人規模に削減された。

新しい集合住宅の建設工事は昨年始まったばかりだ。格井さんによれば、現在の住民の3割程度は新たに移り住んで来た人たちだ。家賃が安いうえ、仙台市にも近いというこのエリアに魅力を感じた人たちだ。残りは、一人暮らしのお年寄りが大半だ。

「新しい住民のみなさんにも、私たちはメッセージを伝えようとしています」。そう言う格井さんは学校や公民館で語り部の活動に携わっており、数年前に一般社団法人ふらむ名取を設立した。さまざな活動を通じて地域社会を構築するのが目的だ。「語り部には(地域社会の再建で)果たすべき役割があると思うのです」

現在の閖上地区・日和山(提供:格井直光さん)

語り部の果たす役割の大きを、宮城県も認識している。東京五輪では同県の宮城スタジアムでサッカーの男子と女子の10試合が行われる予定だが、県が組織して大会期間中に活動する1700人の都市ボランティアのうち、44名が語り部として登録されている。

新型コロナウイルスの大流行で五輪は2021年に延期されたが、五輪期間中、語り部たちはボランティアとして、閖上地区のすぐ南側にある仙台国際空港や仙台市の主要駅に待機し、津波の記憶や、宮城県や周辺で進む復興活動についての説明を担う。

「目的は3本柱で、災害の状況と復興の状況を伝えるとともに、心から感謝の気持ちを伝えることです」と、宮城県オリンピック・パラリンピック大会推進課で課長補佐を務める後藤博道さんは話す。「私たちは世界中から届いた支援の恩恵を受けました。語り部をはじめとするボランティアから感謝の気持ちをお届けしたいのです」

宮城県が開催した都市ボランティアの研修の様子(提供:宮城県)

語り部ボランティアの中には、震災当時まだ小学生だった大学生たちがいて、喪失の体験だけでなく、地元住民が復興をめざして取り組む勇気と不屈の精神も伝えたいと願っていると、格井さんは話す。「記憶は時とともに薄れますが、この機会を活用して体験を思い出してもらい、また、これまでの取り組みを訴えていきたいのです」

格井さん自身も五輪における語り部ボランティアに手をあげた。五輪のおかげで自分たちのメッセージが世界中に伝わると思うからだ。

「東京五輪は『復興五輪』と呼ばれてきました。訪れるみなさんに伝えたい一番大切なメッセージは、災害は遠く離れたこの日本の地だけで起きるわけではなく、万人が過去の経験から学ぶ必要があるということです」

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