
課題への取り組み開催地
夢の五輪スタジアムに「復興芝生」宮城でまいた種、風になびく緑
緑色の帯にふちどられた海岸線が、仙台湾に沿って走る。宮城県山元町から100ヘクタールにわたって広がる青々と茂った光景は、まさにオアシスだ。10年前はただの荒れ地だった場所が、今では東北地方が誇る「夢のスタジアム」になっている。
視界にあるのは、心地良い風になびく芝生の数々。ケンタッキーブルーグラス、ティフトン、日本シバなど、どれも「復興芝生」という登録商標のもと、育てられている。
芝生が栽培されている一帯は、2015年に始まった開発事業の対象区域の一部だ。区域は10キロも南方の磯浜漁港にまで及ぶ。
かつては4,000余の住宅が立ち並び、農業や商業の地区がそれぞれあったが、今ではほとんど跡形もない。2011年3月の東日本大震災で大津波に見舞われ、町の海岸沿いは壊滅的な被害を受けた。住民約640人が命を落とし、何千もの住宅が倒壊した。町は県庁所在地の仙台市から35キロ南にある。
「目を覆いたくなるような光景でした。戦地でもここまでひどくはないと思われるほどでした」と、大坪征一さん(80)は語る。「復興芝生」の発案者で、生まれも育ちも山元町だ。「荒れ地とさえ言えないありさまでした。木や家や畑や会社があったはずのところに、海がせり出してきたのです。私の家や農地がどこにあったのか、目印ひとつ残っていません」
大坪さんは、1970年代に仙台市に移り「大坪スポーツ」を創業した。スポーツ用品を扱う会社だったが、後にレジャー施設のメンテナンス会社になった。そのような経緯で仙台市にいたため、大坪さんの身内に被災者はいなかったが、友人のうち何人かは犠牲になった。
津波の後、大坪さんは子供時代に家族がブドウ栽培をしていた場所を割り出した。するとアイデアが浮かんできた。地域の復興の一助になりたいという思いは熱く、無数の公園や運動場に植える芝生の需要がいくらでもあるだろうと気づいたのだ。芝生を育てようと種をまくに至った。
「種をまいたのは、土地の水がはける前で、塩分も取り除かれていませんでした」と大坪さんは振り返る。ふんだんに太陽光が降り注ぐこのまっさらな土地では、津波によって土壌に多く残された塩分も、芝生に決定的なダメージを与えることはないと考えたのだ。「当初は200~300平方メートル程度の土地で、芝生の根付きは良好でした。…復興芝生を育てたいとの夢はありましたが、実際にやって果たしてどうなるのか、全く想像がつきませんでした」

2012年、復興芝生を商標登録した。1年後には、芝生栽培業者の「仙台ナーセリー」など地元の5企業と提携し、「東日本復興芝生生産事業株式会社」を設立した。
翌年には、同社としての初出荷にこぎつけた。最初の注文は、仙台市の野球場や沿岸の堤防などが用途だった。堤防は地域の復興事業の一環で、安全策として建設が進んでいた。
「自分で飼っていた雌牛が、最初の子牛を生んでくれたような心境でした。子牛は元気で、広がる外界に送り出されていく感じでした」と大坪さんは話す。
4年後、15万平方メートルになった土地での芝生の栽培は順調に進んでいた。そして、これまでにない注文が入った。同社が出荷したのは、世界中の人たちの目に触れることになる芝生だった。7,600平方メートルの日本シバを、2019年のラグビーのワールドカップを控えた愛知県の豊田スタジアムに送り届けたのだ。

この注文は大坪さんにとって、格別な感慨があった。自ら根っからのラグビー好き。大学卒業後の就職先だった日産自動車では社会人チームでプレーし、さらに40歳以上のメンバーでつくる「仙台ゆうわくラグビーフットボールクラブ」で現在もプレーを続けてもいる。
「豊田スタジアムのオープニングの試合の観戦にご招待いただきました。自分たちが育てた復興芝生を、あのスタジアムの歴史的な試合(ラグビーのワールドカップ初のアジアでの試合)で見ることができるなんて、感動ひとしおでした。うれしくて涙が出ました」
喜びはさらに広がった。何か月かすると、別の大仕事が待っていた。今度は2020年の東京五輪で使う芝生の栽培依頼だった。
東京五輪のサッカー会場である宮城スタジアムの芝生の植え替えにあたり、大坪さんが手がける芝生が採用されたのだ。品質にお墨付きを与えた出来事だった。五輪は新型コロナウイルスの世界的な大流行で2021年に延期されたが、山元町から北約50キロのスタジアムでは男女10試合が予定されている。

宮城スタジアム用に特別に育てた芝生は、ケンタッキーブルーグラス(KBG)の3品種を混合したものだ。その1つは「グラナイトKBG」で、極限の厳しい条件下でも1年を通じて安定して長持ちする品種として知られていると、スタジアムを管轄する宮城県スポーツ健康課の小山健二さんは話す。
「サドンインパクト」と呼ばれるKGBも3品種のうちの一つで、密集性が高く、耐熱性・耐乾性に極めてすぐれている。小山さんによれば、五輪が予定されている夏の暑い時期にはもってこいの利点だ。
「東京五輪は『復興五輪』とも言われていて、復興芝生を使うのはぴったりの印象ですね」と小山さんは話す。「これによって、世界からやってくる人たちに宮城のことを知っていただきたいし、これまでの復興への取り組みについても広めたいです」
大坪さんが復興芝生の栽培を手がける山元町の開発区域は、まさに復興の一例といえる。603ヘクタールの一帯は、太平洋沿いに南隣の福島県境まで続く。被災した東北地方の中でも「ユニークな存在」だと、町の担当者、菅原健志さんは話す。復興芝生をはじめとするこの区域での取り組みは、山元町の復興事業の「目玉」だという。
芝生栽培を手がける大坪さんは、自らの発案が「フィールド・オブ・ドリームス(夢のスタジアム)」として実を結んだことに、いまだに「驚いている」という。1つどころか2つも夢が実現し、願わくばその先も見すえている段階だ。
「もちろん、目的や夢があってこそ、前に進み続け、最善を尽くすことができます」と大坪さん。「ラグビーのワールドカップや五輪を通じて分かるのは、夢は実現しうるということです」
